世の中を見ていると、自らを戒め精神を高めていこうと言う方向性が衰退していってるように感じる。
自分をほんのわずかでも厳しめに鍛えて世の中に対してより良き影響力のある人間になろうと言う精神が見えない。
「今のまんまでいいじゃん」的な考えかた、そういう人間のレベルでいいと思っている。
自分を厳しくする必要は無いと思っている。
確かに、厳しく暮らすという考え方までは必要とは言わない。
しかし、人間は放っておくといつか堕落の方向に進んでいくのだ。
それは自分自身が身をもって経験したことだ。
だから、怠惰な事件が増加しているのだと感じる。
人は放っておくとちょっとくらいの規律違反は構わないだろうと言う心の緩みが出てくるものだから。
物事は高い方から低いほうに流れていく。
それが自然現象だ。
ちょっとだけでいいから、自分を引き締める方向に向いていなければ、堕落していくのが人間の精神の弱さだと思う。
それを適度に良い方向に導いてくれるのが「道」であろう
剣道、中道、茶道、茶道、合気道などなど、いろいろな道がある。
そういう「道」の基本には、最初に精神統一がある。
それ、そういう気持ちの置き方を言っているのだ。
最近でよく言われるのが「禅」である。
「禅」は呼吸法から取り入れられている。
目をつむり、静止をしたまま何も考えない。
必要な事はひとまず深い呼吸だけだ。
人間の弱さに忍び込むあらゆる雑念をできるだけ消していく。
そういう行為であろうと私は解釈してる。
わかりにくい例えかもしれないが、黒板に書かれた文字を黒板消しで消すようなものだろうか。
黒板にいろいろな文字や絵やいたずら書きや様々書き尽くすとする。
そのまま書き続けると収拾がつかない汚い板になってしまうよね。
それを黒板消しで、ひとまず綺麗に消してしまうのだ。
できるだけ綺麗に消してしまうと何も書かれていない黒板が見えてくる。
これからいろいろなことができる黒板に戻っていく。
そしてそこからまた必要な文字や絵などを書いていくことができる。
ここで言いたいのは、消そうとしているものは、人間の心の中の雑念である。
本来ならいらなくなったもの、ゴミである。
ダストボックスにゴミが溢れ返り、そのまま放置すると部屋中がゴミだらけになる。
ゴミ屋敷になる。
ゴミ屋敷は機能性が悪く腐敗臭がするし、そのまま暮らせないだろう。
中には暮らせるという人もいるがそれは違うと思う。
結論は暮らせなくなるのである。
だから、禅を通して心の中をゴミ屋敷から救い出すのであろう。
そういうことを日常から、ほんの僅かずつできるようにしていこうと言う。
そういうルーチンワークが「道」なのであろう。
華道でも良い、茶道でも良い。
書道でもいいな。
1日に10分でも20分でもそういうことができれば、日常が安定していくのではないだろうか。
日本の文化の中にひっそりと根付いていた「道」の世界。
今はずいぶんと日常からなくなっているように見える。
「そりゃあ、みんなが集まってくだらない時間を費やしているだけだろ」
と言う西洋的な考えでは理解し得ないだろう。
「無駄な時間」
現代社会ではそう言われるだろうと思う。
その無駄な時間には見えない精神医療的な次元がある。
最近になって「禅」はスティーブ・ジョブズなどからも取り入れられた経緯もあるらしい。
そういう本を読んだが、難しいと書かれてあった。
しかし、日本の風土にはもともと日常にそういうものが入っていた。
簡単なことだった。
楽なことだった。
目を閉じて呼吸をすることに集中するだけ。
しかし、今やそれができない。
人の感覚から消えつつある。
人そのものが機械化してるのかもしれない。
そこまで想像してみると、あながち間違いではない気がするな。
それまさに人間ではない。
聖書から入ってきた文化は「都市化」と言う流れの中で人の心を雑念だらけにした。
情報というものが多くなりすぎた。
暮らしそのものから変化した。
生活の流れがそよ風を消していった。
季節の虫の声すらも消していった。
春の香りもしなければ、夏の匂い、秋の気配、冬の静けさも体が感じなくなっている。
身体そのものからその機能が消えているのかもしれないとすら感じる。
もはや失われた感覚かもしれない。
それを取り戻すには、本当の生き物としての人間の暮らしに戻るしか方法は無いだろうと感じている。
「自然」
それはまだまだ人の心身には必要不可欠なものだと思う。